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身体に基づく哲学から次の時代における文化の礎を考察していきます。
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武学は自然を理解していく学問であり、意拳はその方法論だ。人の持つ本来性や自然を探求する手段が意拳である。

老荘の思想を超えるものは、いままで出てきていない。
しかし、意拳により思想が体現できる段階まで来た。
難解といわれる意拳だが、これから修得者が増えていくことを期待する。

いまの武道の指導法を見ても、"みんな同じように先生の真似をしてください"という教え方が一般的なわけですが、これが学問だったらそうはならずに、実証・実践を求めます。それは相手に優位を示すのではなく、本質を求めるからです。意拳は身体を使って学になっているかどうかを立証します。だから拳を交えることで本質を求める。ここでいう本質とは自然のことです。
p35

常に本質を見失わないこと。
それが大事だ。
へたに技術をあがり、なにかしらできるようになると、具体的になり、それは意拳ではなくなる。自然を体現できなくなる。

武学は、意拳創始者の王薌齋(おうこうさい)よりも上位にあり、それを発展継承していかないといけない。p36

武術は一代限りのものが多い。
創始者の天才性によること。
伝えることの難しさ。
創始者の神格化。
などによる。

何代も続いているものでも、その名誉、権利などのために形骸化されているものを多い。
しっかりと本質を見続けているところに意拳が意拳たるところだ。

その法則とは、考えて作り出すものではない。物を落とせば落下し、朝になれば日が昇るのと同じような、運動にまつわる法則であって、思考で練られたロジックではない。意拳はただ、目の前に現れる、あるいは身の内にある自然の法則を求める。

このあたりは梅路見鸞の逸話を思い出させる。
梅路は、当たってから矢を放すから、命中する。といい、的の中心に何度も矢を打ち込むのを当然のことといった。これは傲慢ではなく、当たり前のことなのだ。
だからこういった天才といわれた人たちは、一般人が「なぜできるのか。」と聞くと「なぜできないのか。」といった。

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