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  <title>身体的哲学論</title>
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  <description>身体に基づく哲学から次の時代における文化の礎を考察していきます。</description>
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    <title>日本の転換期</title>
    <description>
    <![CDATA[田舎はバカで、都会の大学出は頭が良い。<br />
ほんの昔ぐらいまでは、そう信じていた人も多いのではないだろうか。<br />
<br />
こういう幻想が生まれたのも、明治維新以降、日本が急激に外国文化を取り入れたからだ。<br />
もともと外国文化、特に中国だが、を取り入れて、自国独特の文化とすることを日本は得意とする。<br />
しかし、明治維新はあまりにも急激に外国化しすぎた。<br />
外国化された社会で活躍するためには、外国のルールを学ぶことが必要になる。<br />
当時、それは大学に行くことでしか外国のルールを学ぶことができなかった。<br />
<br />
その後、高度経済成長を経て、不況時代に突入し、現在に到る。<br />
この抜け出せない不況は、つまり構造的に不況を表し、それは日本における外国化の限界である。<br />
<br />
いまの東京経済は、架空経済であり、それも世界同時バブル崩壊とともに崩れ去っていく。<br />
明治維新以降急激に外国化したぶんだけ、今度は日本文化への動きが生まれる。<br />
それは、地方にある。<br />
日本ではなくては成立しない経済が地方にある。<br />
ただ、現在の地方は、疲弊しているところも多いし、地域の文化伝統といったものも廃れてきている。<br />
限界集落などと呼ばれているところもある。<br />
だがそれだから良いのだ。<br />
文化とは、その文化圏の外側にたってはじめて、その地の文化というモノを実感できるものだからだ。<br />
<br />
私達、日本人は、日本文化を客観的に観、味わうことができ、21世紀に向けて、新たな文化を創っていくことができるという歴史上でも稀にみる非常に重要な時代に生きている。<br />
<br />]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
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    <pubDate>Mon, 03 Sep 2007 12:53:41 GMT</pubDate>
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    <title>老人の智慧</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>若者に限らず、最近の大人でも考え方が子供だとよく言われる。<br />
そのひとつに、老人と接していないことがあげられると思う。<br />
<br />
自分の価値観のあった集団のみでの、コミュニケーション。<br />
ネット上ので、自分と対立する意見があるときにも自分は安全な位置にいながらにして、論争したり、無視したり出来る。<br />
<br />
このような生活では、考え方も成長しないし、他人を受け入れることもできない。<br />
<br />
大家族や共同体に属していると、自然とそういった能力が身につく。<br />
本当に使える能力というのは、自然に出来ることでなければ意味がない。<br />
仕事でも、スポーツでもそうだが意識してやっとできるようでは、使える能力ではない。<br />
無意識でも使える能力でないと、プレッシャーのかかる状態では、うまくすることができない。<br />
だから、子供のころから自然に育っていくようにしなければならない。<br />
<br />
子供の頃から、老人や多くの大人に接していると、どうすればどんな大人になるとか、学習できることやできないことなどが自然と分かってくる。<br />
そういったものがなく、単なる知識だけでは、深みのない人になってしまう。<br />
そういった人によって構成される社会もまた深みのないつまらない社会になるだろう。<br />
</p>]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
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    <pubDate>Mon, 06 Aug 2007 13:16:44 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>改善の効用</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>日々の生活の中で、創意工夫を凝らす。<br />
仕事では、これを改善(英語でもKAIZEN)といったりもする。</p>
<p>さて、いまさらながら、この改善の効用とは何だろうか？<br />
もちろん、仕事上の改善活動なら、生産性の向上や品質向上、コスト削減などと言われるだろう。</p>
<p>しかし、それはあくまで結果である。<br />
もともと改善活動は、生産性の向上や品質向上、コスト削減のために行われるのだから、生産性の向上や品質向上、コスト削減が結果として表れるのは当然かもしれない。</p>
<p>それでも、結果は結果でしかない。<br />
結果だけを求める改善活動は、トップダウンの押し付けとなり、「改悪」と化す例が続出している。</p>
<p>もう一度、改善の効用を考えてみる。<br />
今度は、一日単位の改善活動に焦点をあてる。<br />
ある一日に結果としてみられる改善がなければ、その改善活動は意味がないのだろうか？<br />
そんなことはない。<br />
本当に改善活動を行っている社員なら、常に現場に眼を光らせ、頭を働かせているはずだからだ。<br />
そういう時に、事故やミスは起こり難いし、ダラダラと働いているときに比べれば、どちらが、より生産的かは分かるだろう。</p>
<p>ビジネスは、飽きない商いでなければ続かない。<br />
改善はそのために大きな効果を発揮する。<br />
日々の改善活動で創意工夫できたときの喜びは、日々の仕事を飽きないものにしてくれる。</p>
<p>だいたい、人間のいうモノは飽き易い生き物である。<br />
いつも同じことをしていれば、誰だって飽きる。</p>
<p>何十年も同じ商売をしている人、子供の頃から同じ物を創るをしている職人、同じ動作を何万回と繰り返すスポーツ選手。<br />
これらの人は、いつも同じ事をしているのではない。<br />
常に違うことをしているのだ。</p>
<p>だから本当の名人、達人は80歳、90歳になっても「まだまだ修行が足りません。」ということが出来る。</p>]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
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    <pubDate>Mon, 30 Jul 2007 00:04:35 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>トラブル続き</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>悪いことは続くとはよく言ったもので、誰にでもそのような経験はあるのではないだろうか？<br />
悪いこと、トラブルなどは、人によって感覚が違うらしく、ある人には大変でもある人には何も感じないということがよくある。<br />
ちょうど、暑さ寒さの感覚が各人違うようなものだろうか。それに慣れも大きく関わってくるだろうが。</p>
<p>トラブル続きもよくあるが、そのトラブルに勇気をだして、えいっと一歩踏み出せばなんなく解決してしまうことも、またある。<br />
そんなことが何度かあって、「あぁ、あのときが自分の成長期だったんだなぁ」と気づく。<br />
よくよく考えみるとなぜそんなにある時期に集中してトラブルが発生するのか？<br />
答えは簡単だ。<br />
新しいことに挑戦しているときだからだ。</p>
<p>右も左もわからない新しいことに対しては、本能的に恐怖を感じるし、トラブルではないものまでトラブルに感じてしまう。<br />
そんなときは、勇気を出して、一気に解決してしまうのが良い。</p>
<p>新しいことに挑戦する前は、心が昂ぶっている。<br />
いざ、そのことに取り組もうとしたとたん、現実の壁にぶつかる。<br />
そういった壁は、自らぶつかっていかない限り決して道は開けることはない。</p>
<p>ふと、自分の過去の壁を振り返ってみると単に恐怖心を感じていただけの薄い壁も多いだろう。<br />
だから、人生の諸先輩達は、身がすくんで動けない後輩達を笑顔でこう答える。<br />
<br />
「いいから、思い切って飛び込んでごらん。」</p>]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
    <link>http://bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E7%9A%84%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%AB%96/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB%E7%B6%9A%E3%81%8D</link>
    <pubDate>Mon, 23 Jul 2007 07:22:15 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>掃除の音</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>田舎の朝は、早い。<br />
日の出と同時に起床し、掃除をはじめる。<br />
サッサッという箒の掃く音。<br />
それは、一日の幕開けに相応しい爽やかさというか整然とした感じを受ける。</p>
<p>箒とハタキなどといった日本の掃除道具は、掃除機などに変わった。<br />
それは、外国の企業が箒とハタキによる掃除では、掃除がされていないことを科学的に証明し、掃除機を売りつけたからだという。</p>
<p>その頃の日本は、日本的なものは時代遅れで、外国文明が最先端だと思っていたから、掃除機が一般家庭にも広がっていた。</p>
<p>合理的思考からすれば、それは当たり前のように感じる。<br />
しかし、日本の掃除というものが単に綺麗にすることが目的でないとしたら、どうであろうか？</p>
<p>日本の掃除は、綺麗にするためだけではなく、祓い清めるためだという話を聴いた。<br />
箒の掃く音。<br />
ハタキの小気味良く叩く音。<br />
掃除がリズムが良くなくてはならない。<br />
掃除はだらだらとするものではない。<br />
サッサッとテンポよくおこなうのが普通だ。<br />
その掃除が奏でる音が部屋を清める。<br />
だから、掃除は朝からおこなう。</p>
<p>日本の神道でも、その仕事のほとんどは掃除だといっても良いだろう。<br />
毎日掃除している日本の神社は、清潔、綺麗というよりもやはり厳かな感じが強い。<br />
それは、常に祓い清められているからだと思う。</p>
<p>いずれにせよ、朝慌しく出かけて行ったり、休みにはずっと寝ているよりも、朝早くから手際よく掃除をするのは、気持ちが良いものだ。<br />
<br />
共同体に住む人々が共通に心地よいと感じるコト、モノを掘り下げて行くことを文化という。<br />
掃除道具ひとつをとってみても、その多様性に文化を感じる。<br />
</p>]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
    <link>http://bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E7%9A%84%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%AB%96/%E6%8E%83%E9%99%A4%E3%81%AE%E9%9F%B3</link>
    <pubDate>Mon, 16 Jul 2007 08:57:39 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>S&amp;L事件とアメリカ大恐慌</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>アメリカ貯蓄貸付組合(S＆L)事件と１９２９年アメリカ大恐慌の原因を調べてみると、投資の対象が株式であったか不動産であったかの違いはあるが、ほぼ同じような市場メカニズム上の欠陥が重なって発生していることが分かってくる。同時に、日本において発生している住専など金融システムの混乱の原因にも通じていることに驚かされる。</p>
<p>その大きな原因は<br />
①投機資金が潤沢に供給されうる環境にあったこと<br />
②関係者集団が「見せかけの利益をつくって分配」し、不当な利益を得ることが可能な状態が放任されたこと<br />
③市場経済の基本となる価格などの「メーター」が恣意的に操作されうる状態にあったこと<br />
④金融システムという大きな「信用造出機能が介在」しているため、より大きな混乱を招いたこと<br />
⑤国ぐるみ、社会ぐるみで発生しているため従来の「制御機能が働かず」結果的に国ぐるみで後始末をすることになったこと<br />
(S先生のレポートより抜粋)</p>
<p>現在の金融経済を見回したとき、世界同時バブル崩壊ともいえるような状況が目の前に迫ってきているかのような思いがする。<br />
貧富の差が拡大していくような社会では、その差が臨界点に達したときに大崩壊を起こす。<br />
近代経済が何度も繰り返してきたことではあるが、事件以後大恐慌の恐怖を忘れ、富の魔力にとりつかれた人達がまた同じことを繰り返す。</p>
<p>これまでは、資源の制約のなかでそれなりに発展してきたが、これからは資源の制約上これ以上の発展はなく、ただ地球の崩壊が見えている。</p>
<p>毎日二倍で増える蓮のたとえ話がある。<br />
二倍で増える蓮が池全体をおおう一日前には、蓮はどれほど池をおおっているだろうか？答えは、池のちょうど半分。<br />
一日で二倍になるのだから、全体がおおわれる一日前には、池の半分が蓮におおわれていることになる。</p>
<p>まだ半分あると思ったら、もう明日には何もない。<br />
いまの環境問題もそのような状態にある。</p>
<p>もし人類がこれから先も地球に住むとすれば、全人類の意識を変えざるを得ないようなストーリがこの先待っているのだと思う。<br />
</p>]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
    <link>http://bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E7%9A%84%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%AB%96/s-l%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E6%81%90%E6%85%8C</link>
    <pubDate>Mon, 09 Jul 2007 10:15:10 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>他人には迷惑をかけていない</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>若者が自分勝手に行動し、最終的に「別に他人に迷惑かけていないからいいじゃん」などと言うことがある。<br />
若者の行動を注意した側も、こんな時代ということもあり、他人に迷惑をかけずに自分自身が楽しめていればそれでいいのかもしれないと思う気持ちがあるのか、それ以上強く言えなくなる。</p>
<p>だがそれは余りにも近視眼的な考え方ではないだろうか。<br />
ビジネスの世界では、昨日と同じ事をしているときは、何もしないで稼いでいるという。<br />
もちろん毎日のルーティン業務なあるのだが、ただ事務的にこなすような仕事は仕事とは呼べない。何もしていないも同然なのだ。<br />
では、仕事をするとは何を指すのかというと、常に毎日の業務を改善し、新しい価値を生み出すようなプロジェクトを遂行するというものを指す。</p>
<p>毎日の業務をこなしているだけでは、会社は成長しないし、人間も成長しない。<br />
給料は貰うが、自分の仕事をこなすだけという社会人が多いのではないだろうか。</p>
<p>ではいわゆるニート、フリーターなどはどうだろうか。<br />
彼らはアルバイトもしくは、働かないのだから業務をこなすだけの社会人よりも性質が悪い。<br />
業務をこなすだけの社会人がなにもしていないなら、ニート、フリーターは、マイナスの効果社会全体に与えてると言える。<br />
自己中心的なニート、フリーターは、自分の人生だからどうしようと勝手だと言うが、そういった人達がどれだけ社会に大きなマイナスに働いているのかが分かっていないではないか。</p>
<p>ニート、フリーターは日本が気づいてきた価値を食いつぶしているともいえる。</p>
<p>だからといってニート、フリーターが一生懸命働いて欲しいのではない。<br />
昔のように働いても日本の構造的不況と資源的制約によって、世界の限界があるからだ。</p>
<p>20世紀の価値観で生活をしている人には、21世紀は暗いものに思えるだろうが、少し視点を変えてやればものすごく明るい未来がある。<br />
暗い未来をみているニート、フリーターがいるとしたら、どうか明るい未来を見て欲しいと思う。<br />
そして、こんな時代にした大人に対して怒りを持っている人もいるかもしれないが、当時の人達は精一杯生きたことを知って欲しい。それおかげで経済大国になったが、そのせいで大きな過ちを犯したことも事実だと。<br />
だが、人類はまだまだやり直すがチャンスが残されていると思う。<br />
間違ったらもう一度やり直せばよいのだ。</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
    <link>http://bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E7%9A%84%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%AB%96/%E4%BB%96%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AF%E8%BF%B7%E6%83%91%E3%82%92%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84</link>
    <pubDate>Mon, 02 Jul 2007 09:03:57 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">bodyphilosophy.blog.shinobi.jp://entry/67</guid>
  </item>
    <item>
    <title>大きい政府か小さい政府か</title>
    <description>
    <![CDATA[大きい政府か小さい政府か<br />
<br />
保護貿易か自由貿易化<br />
<br />
学者間でも欲論争される問題だが、本当のところをいうとどちらにもメリット、デメリットがある以上、どちらが選りすぐれいているということはない。<br />
時期によって、どちらかがより効果的に機能するということはあるだろうが、それが永続的に機能しつづけるということは、歴史をみてもありえない。<br />
<br />
大きい政府か小さい政府かと考えることが自体が、思考を硬直させている。<br />
スポーツでも一箇所に意識を集中しているとぎこちなくなるように、政府とか利益とかに焦点をあてると全体としての活動がぎこちなくなってしまう。<br />
スポーツでも何でも本当に良いパフォーマンスができるときは、無心の状態にあるはずだ。<br />
なにか余計なことを考えてるときには良いパフォーマンスはできない。<br />
<br />
科学の世界では、論理性、再現性が重視されるあまり、このようなことについて研究がされてこなかった。<br />
20世紀は科学的思考が引っ張った時代であったが、それも限界に近づいている。<br />
21世紀は、科学性を超えた時代でなければ、人類の未来は暗いものになるだろう。<br />
なにも、宗教とか昔にもどれ、というのではない。ただ今までの思考方法で解決できる問題が少なくなってきたのだ。]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
    <link>http://bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E7%9A%84%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%AB%96/%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%84%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%8B%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%84%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%8B</link>
    <pubDate>Thu, 28 Jun 2007 07:48:00 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>無題</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>よく科学の限界がいわれたり、民俗信仰が迷信だといわれたりする。<br />
どちらが本当などということは無いのだろうが、むしろそれが分からない人がこういったことを囃し立てるのではないか。<br />
分かっている人は分かっているので、そのようなことには付き合わないのだが、分かっていない人にとっては、その事実が大変なのだ。</p>
<p>科学か宗教かという争いは、いわば子供の喧嘩のようなもので、大人が口を出すものでもない。<br />
ゲーム好きな子供とスポーツ好きな子供がどちらが正当かという喧嘩をしても、大人が口を出す問題ではないのは分かるだろう。ゲームが本当に好きで技術があればゲーム屋で働くし、スポーツが本当に好きで上手ならプロになる。<br />
ほとんどの子供は、どちらに芽が出るかわからないので、大人から言えることは何でもやってみなさいぐらいのことではないだろうか。</p>
<p>どちらが正しいかよりも、どれだけ具体的に掘り下げて考えることが出来るかが重要になる。もちろん、たんなる妄想で終わっては、何にもならないのである程度の客観性が必要だろう。<br />
過去を振り返っても分かるとおり、人間の人生観、世界観でさえ時代によって大きく分かれる。その時代、時代で神様を本当に信じている時代もあるし、神様を本当に信じない時代もあった。</p>
<p>歴史も、大人も子供も同じようなことをやっている。これらはフラクタルとよばれたりもする。</p>
<p><a target="_blank" href="//bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/File/zu539_1_s.jpg"><img alt="zu539_1_s.jpg" align="left" border="0" src="//bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/Img/1182824256/" /></a><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
この図はフラクタルで描画された山だが、もとは下記の図のように単なる三角形でしかない。<br />
<br />
<a target="_blank" href="//bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/File/zu535s.gif"><img alt="zu535s.gif" align="left" border="0" src="//bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/Img/1182824367/" /></a><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ただの三角形だと山だといっても迫力に欠ける。<br />
それに対してフラクタルで描画されたCGにしてもこの山の図は三角形よりもずっと山らしく感じる。<br />
私たちも同じようなことを繰り返し生きていくことで、この図のようにやがて迫力のあるものとして表現されるのかもしれない。<br />
ただ本質は単純なものであることを忘れてはならない。<br />
</p>]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
    <link>http://bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E7%9A%84%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%AB%96/%E7%84%A1%E9%A1%8C</link>
    <pubDate>Tue, 26 Jun 2007 02:20:35 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">bodyphilosophy.blog.shinobi.jp://entry/65</guid>
  </item>
    <item>
    <title>身体文化</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>身体と精神が別のものとして動いていたとしたら、それでいて不意に身体と精神が交錯する瞬間、身体と精神が充足するとしたら。</p>
<p>動物の身体は、充足している。<br />
だから動物は生きているだけで完結している。<br />
生きていること自体が幸福なのだ。</p>
<p>人間の身体は、充足していない。<br />
身体が充足していないが故に精神が生まれたともいえる。<br />
身体とは、それだけで完結しているが、精神は常に何かを求めている。<br />
充足した身体をもつ人は、悟ったいわれるが、その精神がどこかに向かうことをしない。<br />
何もしないから悟人なのだ。<br />
生物としては、それで完結している。<br />
だから悟った人には何とも言えぬ清々しさというか、人を安心させる力を持っている。<br />
<br />
だが、人間というモノはむしろその常にどこかを求める精神にこそ見出せるのではないだろうか。</p>
<p>精神は、身体の不充足ゆえに運動する。<br />
だから、何も考えまいとしても次々に邪念が浮かんでくる。<br />
身体の不充足の度合いが強いほど、精神の運動も盛んになり、常にどこかを目指しているはずなのだが、どこに向かっているのか分からないほど、方向を無視して運動を始める。</p>
<p>精神の安定を図るには、まず身体の充足を図らねばならない。<br />
身体の完全な充足一歩手前の時、精神は完全は安定と方向性をもって運動を始める。<br />
それは、スポーツ選手のゾーンといわれているものに近いかもしれない。</p>
<p>不充足な身体は、精神の方向性を失わせるが、充足された身体は精神の運動を停止させる。<br />
人間と動物の違いは、わずかに充足しない身体により生まれた精神の力により、動物ではたどり着けない場所にまで行けることにあるのかもしれない。</p>
<p>また、精神が身体に触れた瞬間、充足する。<br />
どこかわからない方向に向かっているときどうしても自問自答を繰り返す。<br />
私はどこに向かっているのだろうかと。<br />
そのとき、精神が身体に触れた瞬間、充足されその不安は消える。<br />
それが文化芽生えともいえる瞬間である。<br />
その瞬間を普遍的に多人数で共有できるとき、文化とよばれるものになる。</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
    </description>
    <category>身体的哲学論</category>
    <link>http://bodyphilosophy.blog.shinobi.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E7%9A%84%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%AB%96/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E6%96%87%E5%8C%96</link>
    <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 06:27:24 GMT</pubDate>
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